「ねぇ。三条さんいるよ。あの人、家柄だけで本人はそうでもなくない?」「ちょっと、本人に聞こえるって」
それは私の日常だった。
◯
私は三条怜夏、中学二年生。
通っているのは制服が可愛いと全国で有名な女子校。人気の大半の理由が制服っていうのも、どうかと思うけど。私は家から近いから通っている。
でも、私は知っている。私には、決定的な“欠点”があるってことを。
……性格が悪いのだ。
得意なところだけ人に見せて、不得意なところは徹底的に隠す。自信のあることでしか勝負しない。人を心の中で見下すくせに、自分が損することは絶対にしたくない。
そんな自分が嫌いだと、分かってる。直したいと思ってる。でも、どうしたらいいか分からない。
大人しくしてればいい? でもそれって本当に“私”なのかな。
ぐるぐると考えて、気づけばまた一人で朝食のパンをつまんでいた。
リビングに誰もいない隙を見計らって。
登校前。玄関へ向かう途中で、背後から母の声が飛んでくる。
「怜夏。立場をわきまえなさい。スカートは折らない。髪型は低い位置で一つに結ぶ。いつも言ってるでしょ?」
「分かってます」
ぶっきらぼうに返して、指示なんて無視して玄関の扉を開ける。
背中に母のため息が刺さった気がするけど、無視して家を出た。
門を出たら、私は自由だ。
母も、同級生も、誰もいない。誰にも“理想の三条怜夏”を押しつけられない外の世界。
「……今日は、ちょっとだけ寄り道しちゃおうかな」
制服のスカートを揺らしながら、私はいつもの登校ルートを外れた。
その先には、大きな書店がある。今月発売の単行本を買いに行くためだ。
店に着くと、真っ先に新刊コーナーへ向かう。目当ての漫画を見つけた瞬間、すぐ手に取ってレジへ直行。
この漫画はファンタジー作品。現実の冴えない社会人が異世界に転生してイケメンになり、女の子を連れて無双する――いかにも中学生が好きそうな内容だ。
でも私は、無双する姿じゃなくて、“異世界の世界観”が好きだった。その中でたまたま見つけたのがこの作品だった、というだけ。
会計を済ませた後、漫画をカバンにしまい、学校へ向かう。だけど、行きのような軽やかな足取りではなかった。足が重くて、無理やり動かしているような、そんな感覚。
◯
教室に入ると、あまり話したことのないクラスメイトであるロングヘアの子が近づいてきた。少しだけ微笑んで、「おはよう」と声をかけてくる。
いつも誰からも話しかけられない私に気を遣ってくれたのかも……。そう思って、つい気持ちが浮いてしまい、「おはよう……!」と返事をした。
その時、後ろからクスクスと笑う声が聞こえた。
振り返ると、扉の影から仲良しグループらしき4人が、私を嘲るような目で見ていた。その子たちは以前から、時々私にちょっかいを出してくる。
「ふーちゃん、もういいよー」
半笑いの声で呼ばれたロングヘアの子は、「あはは」と笑って、彼女たちの元へ駆けていく。
なんだ、からかわれていただけか。
そりゃ、そうだよね……。
あの仲良しグループは、時々先生が後ろを向いている隙に、私に向けて物を投げてくる。
丸めた紙とか、小さくなった消しゴムとか、いらないものを。
何が面白いのか分からない……それに投げるのが下手すぎて滅多に直撃しない。
放課後。一部の人は部活に行っていて教室に人数が少ない時のこと。カバンを片付けていると、また声が聞こえてきた。
「そういやあいつ、朝にちょっと話しかけられただけで嬉しそうな声で返事しちゃってさぁ」
「ほんと面白いよねー」
顔が引きつる。特別酷いことを言われたわけじゃないのに、何でこんなに嫌な気持ちになるんだろう。バカにされてる……そんな気がした。
「そんな話はどうでもよくてぇ~。私、新しい可愛い鉛筆キャップ買ったんだよね!」
「えー! 見たい~」
「ちょっと筆箱取ってくるわ~」
彼女たちの明るい声が、耳の奥でぐるぐると反響する。
――もう、こんなところ抜け出そう。
私は下を向いたまま、教室のドアへ向かう。その時。
――ドンッ。ガシャーン。
「は? あんた、なに?」
誰かとぶつかった。謝ろうと顔を上げた瞬間、その相手が“なずな”だと気づく。いじめグループの1人。茶髪で、いつもハーフアップをしている。名前以外、何も知らない。
とっさに、私は数歩下がってしまった。
「なずな、大丈夫!? 怪我ない?」
「大丈夫だけど……筆箱落としちゃった……」
「拾うの手伝うよ~」
「はぁ、マジでないわ」
周囲にいた仲間たちが駆け寄り、落ちた文房具を拾い始める。
――こういう時だけ、団結力あるよね。
それだけなら、まだ良かった。
「ねぇ、なずな。この鉛筆キャップ割れてるよ」
「は!? これ、さっき言ってた昨日買ったばっかのやつなんだけど!」
やばい。そう思って教室を出ようと後ろを向いた瞬間、腕を掴まれた。
「ねぇ、あんた、どうしてくれんの?」
「えっと……」
「これだよ、これ。器物破損ってやつじゃないの?」
「……」
口が開かない。
「黙秘するなって~」
外野の仲間達がなずなに乗って色々言ってくる。
「政治家の娘なのにそんなことも分かんないんだ~」
――その言葉で、何かが切れた。
「やめて!」
無理やり腕を振り払った。その拍子に、肩からカバンが滑り落ちた。
「は、ガチギレ? 意味わかんないんだけど」
「なずなのキャップ壊しておいてそれはないわ~」
「ほんとひどすぎ」
「性格わっるぅ」
……。
その中で一人だけ、黙って立っている子がいた。朝、私に「おはよう」と言ってくれたロングヘアの子だ。
なんで黙ってるんだろう、そう思っていたら――
「ねぇ、それ」
彼女が指差したのは、カバンからはみ出していた漫画だった。
「え、学校に漫画? てかこれ、オタクが読むやつじゃん」
お団子ヘアの女が、勝手に漫画を拾い上げて笑う。
「学校に漫画持ってきちゃ駄目なんだぞー」
また便乗して外野が何か言っている。
その時、なずなが何か思い付いたような素振りを見せた。
「あ、それ貸してよ」
漫画はなずなの手へ渡った。
――ビリッ。
「えっ……?」
なずなは私が持っていた漫画を破り始めた。
ビリッ、ビー……ビリビリッ。
「……やめて」
情けないくらい小さな声しか出なかった。もっと、大きな声を出さなきゃいけないのに。
「なずな、それはさすがに――」
「いいの、いいの。こいつのだから。私は関係ないし」
どうしよう。どうにかしないと。
私はカバンの中に手を入れた。細長いものに手が触れる。
――あっ。
私はカッターを相手に向けて振り上げた。けれど、本気で傷つけたかったわけじゃない。ただ、やめてほしかった。それだけなのに、私の手は彼女の頬に浅い傷をつけていた。
その場にいた全員が静まり返って、私を見ていた。
なずなは頬を押さえて立ち尽くしていた。誰もが私を「信じられないものを見るような目」で見ていた。私自身でさえ、自分が何をしてしまったのか、理解しきれなかった。
「……あんた、まじの狂人じゃん」
自分が嫌いだ。
◯
職員室前、私は先生にやんわりと怒られていた。
「怜夏さん……事情は分からないけど、軽い傷とはいえ、女の子の顔に傷をつけるのは良くないわよ」
「はい、すみません」
「今回は親御さんには連絡しないけど……次は気をつけなさいね」
私は、人を傷つけたクズなのに。優しさの理由なんて、分かってる。
相手が軽傷で済んだから?相手が漫画を破ったから?
……違う。私の家柄のせいだ。先生は、“政治家の娘”を前にして、本音なんて言えない。親が学校に苦情を入れたら、自分の立場が危うくなる。きっとそれだけの話だ。
学校を出るのが遅くなった。辺りは薄暗い。そこら辺に沢山ある家の一部の窓からは光が漏れていて、家庭の料理の匂いがする。
温かい家庭があるんだなと想像しつつ、壊された漫画のことを考えていた。いや、違う。漫画じゃない。
壊されたのは、“私の居場所”だった。異世界に行った冴えない主人公。現実でうまくいかない彼が、自分の力で誰も傷付けず道を切り開いていく姿。あれは他人事じゃなかった。私にとって、唯一の逃げ場だったのかもしれない。
その世界を、あの子たちは「オタクっぽい」と笑って、破いた。あの子たちは、私の“心”を破いたんだ。
「私ってば、ほんとクズ……」
暗い空を見上げながら、ぽつりと呟いた。自分のことばかり考えて、自分を守るために誰かを傷つけて。自分が被害者だと思い込んで。
本当の加害者は私なんだ。目に見えない傷を私に作ってきたあの子たちより、目に見える傷を作った私の方が加害者なんだ。きっと。
「私もあの漫画の彼のようになれたらいいのに」
◯
今日も学校に行くため、私は準備をする。
母親がベランダで洗濯物を干している隙に、私はいつものようにリビングへと忍び込み、いつもの席に座って、机の上に置かれた朝食を食べる。
なんでそんなコソコソしてるのかって? それは、できる限り母親と顔を合わせたくないから。ご飯を作ってくれるのはありがたいけど、私はあの人のことが嫌いだし、たぶん向こうも私のこと嫌ってる。
今日の朝ご飯は、野菜がぎっしり詰まったサンドイッチ。
……私、野菜嫌いなんだけど。わざわざこんなの置いてるとか、嫌味すぎない? まあ、これ食べなかったら朝食抜きになるし、もったいないから食べてあげるけど。
ちょっとイライラして、同じく机の上にあったテレビのリモコンを手に取り、適当に電源を入れる。朝のニュースに、猫とか犬とか癒し系の動物が出てればいいなって思って。
でも映ったのは、猫でも、犬でもなく――「通り魔、逃走中。注意してください」ってニュースだった。場所も、そう遠くはないらしい。物騒な世の中だな……。
まあ、正直今の私なら通り魔に刺されてもいいかな。学校行かなくて済むし、母親も少しくらい私のこと見直すかも。ちょっと痛いかもしれないけどさ。そんな風に考えるのって、やっぱり浅はかかな?
私はそのまま家を出て、学校へ向かった。今日は運よく母親と顔を合わせなかった。廊下ですれ違いそうにはなったけど、全力で回避した。
少し遅めに学校へ到着。これは計画通り。というのも、登校のピーク時間帯は玄関が満員電車みたいになるから、わざと時間をずらしてる。
玄関で靴を履き替えようとする。もし私がひどいいじめを受けてたら、靴に画鋲とか入れられたり、落書きされたりしてたのかな……?そしたら先生に気付いてもらえたのかな。
でも、私のクラスの子たちは、そういうことをしない。というか、しない“ふり”をしてる。あの人たちは、先生にバレないように、私をじわじわ孤立させて楽しんでるんだ。
靴箱の方を向いている時、後ろから声がした。
「ねえ」
この圧……昨日の“なずな”って人だろう。振り向くと、予想通り茶髪でハーフアップの女――なずなが立っていた。
「これ。分かってるよね?」
彼女が指さしたのは、自分の頬に貼られた絆創膏。顔を傷つけられて怒ってるのか。まあ、当然だよね。
「あんたが傷付けた物は、これだけじゃないよ。ママに買ってもらったキャップもダメになったし」
「……」
「謝って」
いや、そっちだって私の漫画ビリビリに破いたじゃん。そう言いたかったけど、グッとこらえる。
「……ごめんなさい」
「何に対して?」
めんどくさい。
「傷つけてしまって、ごめんなさい」
「ふん。分かればいいのよ」
なんでこういう人に限って、こっちが謝ってるのに「何に対して?」とか言うんだろ。謝ってるだけマシじゃない?
なずなはそのまま階段へと向かって行った。教室で待っている仲良しグループの元にでも行くんだろう。
私も同じ方向に教室があるけど、今一緒に歩くのは嫌だから、階段下でしばらく時間を潰すことにした。
そろそろいいかなと思って階段を上がろうとしたとき、上からロングヘアのクラスメイトが降りてきた。たしか、ふーちゃんって呼ばれてた子。
「……話したいことがあるんだけど」
自信なさげな声。こんな私に、何の用?
「……話したいこと?」
「話が長くなるから……昼休み、使われてない3階の女子トイレで」
ああ、あの位置的に誰も使わない場所ね……。
「分かった」
私は、そう返事をした。
◯
いつも通り、チャイムが鳴って授業が始まる。席の近い仲良しグループは、今日も変わらずコソコソ話したり、手紙を回して遊んでいる。
ただ一つ違うのは——ふーちゃんと呼ばれるロングヘアの子が、どこか乗り気じゃなさそうに見えたこと。いつもそうだったのかもしれないし、今日だけかもしれない。それはきっと、今日になって初めて、まともに話しかけられたから気づいたことなのかも。
「昼休み……かぁ」
あの子に何を言われるのかな、そんなことを考えていたら、授業の時間はいつもより早く過ぎたように感じた。
給食が終わり、昼休みになる。
私は食器を片付けてから、少し遅れて三階の、使われていないトイレへと向かった。
もう来てるかな……そう思いながらトイレに入ると、やっぱりあの子はそこに立っていた。
「じゃあ、話をするね」
「うん」
話って、きっとあの仲良しグループのことだ。昨日のことかもしれない。ロングヘアの子が乗り気じゃなかったのを考えると――あのグループから抜けたい、みたいな話だろうな、と思った。
でも、その予想は少し外れていた。
「私が、あの子たちを変えてしまったの」
「……え?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「だって、1年のころはあの子たち、何もしてこなかったでしょ?」
「……」
それは、クラスが違ったからじゃなくて……?
「意味が分からない」
「だよね……じゃあ、ちゃんと最初から話すね。なずなは、もともと怜夏ちゃんと仲が良かったんだよ」
「……?」
突然“ちゃん”付けで呼ばれて驚いた。でも、それ以上に驚いたのは「もともと仲が良かった」という言葉。
「どういうこと?」
「私はね——人生を、中学の入学式からやり直すことができるの」
「……中二病?」
「そう思われるから、他の人には言ってなかったんだけど……」
現実的に考えて、そんなのあり得ない。……でも、嘘をついてるようには見えなかった。信じられないけど、嘘とも思えない。なら——とりあえず、信じたふりをしてみる。
「それで?」
「何回もやり直したんだよ。全員が仲良くできる世界線を探して。ある時は、なずなちゃんと怜夏ちゃんが親友だった世界。ある時は、私が怜夏ちゃんに嫌われた世界。ある時は、私だけが孤立した世界……。そして今回は、怜夏ちゃんだけが孤立する世界線。これよりも沢山の世界線を経験してきた」
「……」
「変なこと言って、ごめんね。信じなくても、いいから」
じゃあ、私がこれまで苦しんできたこの世界は——無数にある世界線の、たった1つに過ぎないってこと?
嫌だ。そんなの、納得できない。
「信じたくなんて、ないよ。あの人と親友だった世界線とか……考えたくもない」
「あはは、だよね」
一瞬、静かな空気が流れた。気まずさを感じたその時、彼女がまた口を開いた。
「でもね、リセットには回数制限があるの。そして……この世界線が、最後みたい」
「そっか」
「幸せにしてあげられなくて、ごめん。本当に……ごめんなさい」
「全然、平気だよ。だって、これが私の世界だから。えっと……名前、なんだっけ」
「あ、まだ言ってなかったね。私、蓮華風花」
「私は……って、何回も人生やり直してるなら、もう知ってるか」
「そうだね。三条怜夏ちゃん」
○
家に帰ろうと、学校の玄関で靴を履き替えていた。
大きなガラスの扉から夕日がキラキラと差し込んでいる。それが何故か、妙に綺麗だと感じた。
今日は久しぶりに人とちゃんと話せた。
帰り道。
今日は、不思議な会話をした。あれが本当なのかは分からないけれど。
蓮華さんにとっては、たくさんある人生のうちの1つなのかもしれない。でも、私にとっては『これだけ』が、たった1つの人生。
だから、大事にしよう。そう思った、その時だった。
背後に、人の気配を感じた。
振り返ると、中年くらいの男性が遠くからこちらへ向かって歩いてきていた。顔はギリギリ見えるか見えないかの距離。
全身真っ黒の服装で、辺りが薄暗いのもあり、まるで背景に溶け込んでいるようだった。少し不気味に感じたが、気にするほどでもないと思い、再び前を向いて家へと歩き出す。
あーあ、今日も母親に怒られるかも。「帰りが遅い!」って。まったく、私ってば不良だな。
そんなことを考えていた時だった。後ろから聞こえる足音が、だんだん近づいてくる。しかも、明らかに速くなっている。
――その瞬間、咄嗟に朝のニュースを思い出した。
「通り魔、逃走中――」
やばい。……いや、危ない。これは本当に危ない。
私は反射的に走り出していた。ついさっきまで、どうなってもいいと思っていたはずなのに。どうして、今はこんなに必死で生きようとしているんだろう?
足音は、ますます速くなる。私より速い。
「――す、けて!」
うまく声が出ない。喉が震えて、全身から冷や汗が噴き出す。まるでホラー映画のワンシーン。今ここで振り向いたら、どうなる?
これは……昨日、私がクラスメイトを刺そうとした“罰”なの?
その時の感触を味わえってこと?
そんなの、絶対に嫌だ。
……でも。
好奇心と、背後にある見えない恐怖には、どうしても抗えなかった。
――私は、後ろを振り向いてしまった。
◯
ここで、私の人生は終わりか。つまらなかったし、意味なんてなかったな。
……蓮華さんと和解できたのは、神様がくれた最後のプレゼントだったのかな。
あの話が本当なら。
私、三条怜夏の人生は――これで、最後。
来世は、もっと楽しくて。
自分らしく、生きられる場所に、生まれたい――。